2008年 02月 04日
霧社事件 (留学百五十八日目) |
台湾総督府が「理蕃政策」完了を宣言してから15年もたった1930年に起きた原住民族による最後にして最大の抗日蜂起事件が「霧社事件」である。この事件は、タイヤル族のリーダー、モーナ・ルダオを中心とした蜂起部隊が霧社公学校運動会へ襲撃し日本人入植者227名中134名を殺害、その後の日本軍と親日派タイヤル族の「味方蕃」による鎮圧・掃討蜂起側は約700名死亡約500名投降したという、大規模なものであった。
大規模な事件だっただけにその影響も大きく、投降者が日本の官憲の黙認下で「味方蕃」によって襲撃されるという「第二霧社事件」など引き起こしただけでなく、このときのヤルタイ族の勇猛果敢な戦いぶりが「皇民化政策」を加速させたり「高砂義勇隊」の創設に繋がったりしたといわれている。
この事件は原住民統治の抜本的改革を迫るほど大きなものではあったが、一般に未開の原住民による局地的叛乱といった程度の認識であったらしい。しかし、戦後の国民党統治時代に抗日の英雄として再定義がなされ、日本人の殉難記念碑に換わって武装蜂起を称える記念碑が建てられた。ところが近年になって、民進党の本土化政策による原住民文化の再評価が進むにつれ、アイデンティティーをかけた戦いだったと新たな定義づけがなされているようである。確かに「日本人を殺せ。プヌカン(漢民族系台湾人)は殺すな」という蜂起隊の掛け声は、台湾に住む台湾人対外来の日本人という構図であるといえよう。しかし、その後親日派原住民と蜂起側原住民との抗争が続いたというのもまた事実なのであり、この見方が唯一の絶対に正しい見方であるとは言い切れない。
霧社を実際に訪れて実感したのは、台湾の山の中にある霧社のアクセスの不便さである。今でこそバスや車で簡単に入ることが出来るが、それでも霧の漂う山中の集落は下界から隔絶した秘境の雰囲気を残している。外部との交流が稀だっただろう霧社で独自の生活をしていたヤルタイ族が、突然にやってきて「皇民化」推し進めた日本人に対して蜂起したのは当然のことだともいえよう。
しかし、霧社の発端となった、巡査が「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握ラレタル手ヲ払ヒタル拍子」にステッキで若者を2度殴打したという事件が起きたのにもそれなりの背景があるというのも事実である。もちろん人は皆平等であり「人種差別」は悪だというのはわかるが、このような山の中で未開の生活と日本の近代的な生活の間には、きれいごとではすまない大きな違いがあっただろうことも想像に難くない。伊能嘉矩、田代安定、森丑之助らのような冒険的科学者は別として、普通の日本人は未開の蕃人を尊重しあう相手ではなく、教化し開化を促すべき対象であるとしか捉えていなかった。当時の多くの日本人は、原住民を速やかに皇民化し同化することが正義であると信じていたのだが、この考えを現代人の尺度から安易に批判するのは難しい。
大規模な事件だっただけにその影響も大きく、投降者が日本の官憲の黙認下で「味方蕃」によって襲撃されるという「第二霧社事件」など引き起こしただけでなく、このときのヤルタイ族の勇猛果敢な戦いぶりが「皇民化政策」を加速させたり「高砂義勇隊」の創設に繋がったりしたといわれている。
この事件は原住民統治の抜本的改革を迫るほど大きなものではあったが、一般に未開の原住民による局地的叛乱といった程度の認識であったらしい。しかし、戦後の国民党統治時代に抗日の英雄として再定義がなされ、日本人の殉難記念碑に換わって武装蜂起を称える記念碑が建てられた。ところが近年になって、民進党の本土化政策による原住民文化の再評価が進むにつれ、アイデンティティーをかけた戦いだったと新たな定義づけがなされているようである。確かに「日本人を殺せ。プヌカン(漢民族系台湾人)は殺すな」という蜂起隊の掛け声は、台湾に住む台湾人対外来の日本人という構図であるといえよう。しかし、その後親日派原住民と蜂起側原住民との抗争が続いたというのもまた事実なのであり、この見方が唯一の絶対に正しい見方であるとは言い切れない。
霧社を実際に訪れて実感したのは、台湾の山の中にある霧社のアクセスの不便さである。今でこそバスや車で簡単に入ることが出来るが、それでも霧の漂う山中の集落は下界から隔絶した秘境の雰囲気を残している。外部との交流が稀だっただろう霧社で独自の生活をしていたヤルタイ族が、突然にやってきて「皇民化」推し進めた日本人に対して蜂起したのは当然のことだともいえよう。
しかし、霧社の発端となった、巡査が「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握ラレタル手ヲ払ヒタル拍子」にステッキで若者を2度殴打したという事件が起きたのにもそれなりの背景があるというのも事実である。もちろん人は皆平等であり「人種差別」は悪だというのはわかるが、このような山の中で未開の生活と日本の近代的な生活の間には、きれいごとではすまない大きな違いがあっただろうことも想像に難くない。伊能嘉矩、田代安定、森丑之助らのような冒険的科学者は別として、普通の日本人は未開の蕃人を尊重しあう相手ではなく、教化し開化を促すべき対象であるとしか捉えていなかった。当時の多くの日本人は、原住民を速やかに皇民化し同化することが正義であると信じていたのだが、この考えを現代人の尺度から安易に批判するのは難しい。
by TaiwanBlog
| 2008-02-04 15:00
| 民国97年2月